築城年代は定かではないが永徳年間(1381年〜1384年)に赤松氏範(氏則)によって築かれたと云われる。
赤松氏範は赤松円心入道則村の四男で、他の三兄弟が北朝方となるなか、南朝方に属した。 至徳3年・元中3年(1386年)摂津国中島郡にて挙兵したが敗れて敗走し、播磨国加東郡の清水寺にて自刃した。
その後、天神山浄は櫛橋氏の居城となり代々続いたが、永禄年間(1558年〜1570年)の櫛橋秀則のとき、水不足から居城を船原城へと移したと云われる。
天神山城は志方八幡宮の北西に聳える標高129mの山頂に築かれており、多くの地図では天神山古墳群の表記のある山である。
天神山城は南東の山頂に主郭を置き、北西方向に曲輪を連ねている。 主郭は広く削平され、西側には意味不明な列石が残る。北東下は堀切に土橋が架かり、その先に一段の曲輪がある。北西下は半円形の曲輪で周囲に土塁が巡り、北が開口して北西下の堀切に架かる土橋へと続く。土橋はいずれも垂直ではなく斜めに架かるのが特徴である。
堀切を挟んで北西に続く曲輪は堀切に面して石と土塁でやや高く、曲輪は北西方向へと伸びる。途中石棺が向きだしとなった古墳がいくつか点在し、北西の尾根先までダラダラと平地が続いており、先端は堀切もなく自然傾斜で降っており、城域ははっきりとしない。
主郭の北下は外側に幅広の土塁、内側は堀状の溝になり横堀状になった地形がある。 主郭の南西側は不明瞭ながら、つづら折りの登り道の両脇に段が連なっているように見える。
南麓の西飯坂集落の中腹に天満宮があり、境内の西側についた石段を登ると「城主赤松氏範公塔」と刻まれた墓があり、そこから踏み跡程度の山道が付いている。
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