嘉吉元年(1441年)頃の城主は赤松満祐の家臣竹中弥五郎であったと伝えられる。 天正年間(1573年〜1592年)には志方城主櫛橋氏の家臣高橋平左衛門が城主で、天正6年(1578年)には別所氏と行動を共にして三木城に籠城している。
神木構居は神木集落の台地の南端付近に築かれていたと推測されている。 神木構居の位置は詳らかではないが、「二ノ丸」、「構の岸」などの小字が残されているという。
平荘町新中山の熊野神社の西隣に、石棺石仏と宝篋印塔の笠を被った大きな五輪塔があり、ここに神木構居の案内板が設置されている。構居跡はここから南方に100m程降った所だという。