詳細不明。文明元年(1469年)に野村氏によって築かれ、天文年間(1532年〜1555年)に落城するまで野村氏が城主であった。あるいは別所長治の家臣の居城、また、天正年間(1573年〜1592年)に羽柴秀吉の家臣宮部善祥坊が城主であった。など諸説ある。
野村城は厄除八幡宮の北方にあり、西へ張り出した尾根の先端に築かれている。
主郭は西端にあり、東側の尾根を大きく削って空堀を巡らせ尾根から切り離している。 周囲はやや低い土塁が付き、空堀に面した東端が一段高くなって明確な土塁が付いている。虎口は明瞭ではないが、南側の中央やや東に凹んだ地形が残る。
主郭の東は南北二郭で、南郭は周囲を土塁が巡り、北東の鬼門が入隅になっている。 北側の曲輪は南郭より一段低く、北側に低い土塁が残っているものの、削平されているだけである。
この南北二郭の東側には南曲輪の入隅で屈折する形で空堀で尾根を遮断している。北郭の北東側は土橋が架かり虎口になっている。北郭と南郭の中央部は東の空堀とは切り離された空堀があり、西側は明瞭に南北の曲輪を結ぶ土橋となっているが、東側は埋もれた感がある。
空堀からさらに東へと削平された平地が続いているが、道路近くまで歩いてみたものの、空堀や土塁など曲輪があったような遺構は見あたらなかった。
八幡町野村にある厄除八幡宮を目指す。その駐車場から道なりに集落内の道を北上すると、右側に一軒立派な家がある。その北側にあぜ道があり、奥の山裾にリボンが見える。ここから登る。山に入ると正面に谷間が見えるが、谷の北側の尾根が城山である。
最寄り駅(直線距離)