築城年代は定かではない。 室町時代初期に赤松氏範(氏則)あるいは孝橋繁広によって築かれたとも云われるが定かではない。
天文年間(1532年〜1555年)には孝橋氏が城主で、天文7年(1538年)播磨に侵攻した尼子詮久(晴久)に対抗するため、孝橋平左衛門は櫛橋豊後守と英賀城にて迎え撃ったが敗れ、中道子山城に引き上げている。
中道子山城は標高271.3mの城山山頂に築かれており、現在は城山公園として整備されている。山頂の東端に主郭、南尾根に二ノ丸、西尾根に三ノ丸を配している。
主郭は山頂にあり、中央からやや東へ張り出した所に位置する。非常に広い曲輪で、周囲は切岸加工され、北側は低い土塁が巡らされている。現在ここに「赤松城址」の石碑が建っている。
主郭の南西側の入口に位置する所に「伝米蔵跡」とされる方形の土塁で区画された空間が残る。
南尾根に拡がる二ノ丸は、南端に大手門跡が残り、そこからの通路は一度屈折して土塁のある曲輪を通り、坂を登って二郭の平入虎口を通過する。この虎口は両側が石積により補強されている。
中央から北西に伸びた尾根に三ノ丸があり、北東側に搦め手の虎口があり、コの字に屈折して石積された門跡が残る。その先は小郭を経て堀切に通じる。北西尾根の堀切は二条あり、城内側は幅の狭い長い空堀、外側は深い大堀切になっている。
本丸と三ノ丸との間に井戸曲輪があり、石組み井戸が残る。
城山の西麓にある安楽寺は元真言宗の寺院で、もともとはこの城山にあったが城を築くときに麓に移されたと云われる。そして、その近くには「とんが地蔵」と呼ばれる大きな五輪塔が残る。
県道43号線と県道118号線との志方東小学校東交差点の所に道標が出ており、そこから東へ入って道なりに進むと登山道入口の石碑がある。(登山口地図)
登山道入口に駐車場があり、そこから舗装された道が付いているが一般車両は通行禁止である。途中からは山道(旧道)も付いているので、登りと降り、天候に応じて使い分けると良いだろう。
最寄り駅(直線距離)