築城年代は定かではないが相馬小市郎大学助政由によって築かれたと云われる。 相馬政由は平将門の後裔を称する相馬民部少輔秀能の次男で、田原城主相馬秀政とは兄弟という。
嘉吉元年(1441年)嘉吉の乱で相馬政由・政茂父子は三草山合戦で討死し廃城になったという。
土器山城は県道716号線によって切り離された標高74m程の丘陵に築かれていたという。
「兵庫県の中世城館・荘園遺跡」によれば、「城跡と伝えられる地点は石祠が存在するのみ」ということであるが、山頂付近に登ってみたものの、石祠さえも見つけることができなかった。山頂も北側は薮が深くなっている。
山は全体的になだらかな地形で、南側から登ったが細かい段と竪の溝があるが自然地形は畑の跡のようで城跡の遺構は見あたらない。