築城年代は定かではないが相馬小七郎民部少輔秀政によって築かれたと云われる。 相馬秀政は平将門の末裔を称する相馬民部少輔秀能の七男で、土器山城主相馬政由とは兄弟である。
相馬秀政には実子がなかったため、隣の網引村に住む高田采女正信兼の子兼清を養子に迎えていたが、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で秀政は水田城に籠城したのち、行方知れずとなった。その後、兼清は相馬姓から高田姓に戻したという。
天正年間(1573年〜1592年)頃の城主は高田丹後守政光が伝えられる。
田原城は万願寺川と下里川が合流する地点の北西にある河岸段丘の南端に築かれていたという。現在の高森神社がある一帯が城跡とされるが、圃場整備などによって遺構は残されていない。