築城年代は定かではないが室町時代初期に赤松祐尚によって築かれたと云われる。
祐尚は赤松則村の孫義則の子である。祐尚没後は姻族の三木通近が在城し、三木氏が代々城主となる。
戦国時代には本願寺蓮如の子実如を迎えて英賀御坊が城内に設けられるなど勢力をのばしたが、天正5年織田信長は羽柴秀吉に命じて播磨国に侵攻、天正8年には三木城が落城、その後英賀城も落城した。
現在は中浜公民館近くに本丸の石碑があり、英賀神社の北側に土塁の遺構が残るのみである。 また、英賀保小学校の東にある清水公園の南西隅に「英賀保めぐり案内図」というのがあり、英賀城に関する案内が出ている。