詳細不明。
「兵庫県の中世城館・荘園遺跡」によれば、「飾磨郡誌」に領主は才伊三郎正直。置塩城主赤松晴政の子にして義祐の兄也。また「播磨鑑」には領主は権野四郎左衛門。「日本の城と歴史」には二つの才村砦が記され、大字則村は才伊三郎則直置塩城主赤松義祐の兄。大字才村は権野四郎左衛門英賀の臣。とあるそうで、この二つの才村砦が同じものを指しているのかもわかっていない。
「日本城郭全集」では「播磨鑑」に置塩義祐の弟の才村伊三郎則直とある。とあり、若干異っているが、「播磨鑑」を見たことがないのでどちらが正しいのかわからない。
構居は随應寺の境内を中心とした所に築かれていたようである。 「兵庫県の中世城館・荘園遺跡」によれば、北側に幅20mの段があり、五輪塔を含む石碑が並び、南の民家の南側に幅2m深さ1.9mの堀があるとされる。 しかし、現在では五輪塔も堀跡らしき溝も確認できない。境内の西側に宝篋印塔や墓地があり、東側に幅1m程の水路が南北に流れているのが確認できるが、方角の記載が間違っているのか?