建武3年・延元元年(1336年)津野氏・大平氏・三宮氏ら北朝方の勢力が、南朝方の大高坂城に対抗するため築いた城と云われる。
南朝方の大高坂城の大高坂松王丸や大高坂遠江守らが二度にわたって安楽寺山城を攻撃したが落城せず撃退している。
その後、久万城と呼ばれ久万豊後守俊宗が城主であったと云われる。 永禄3年(1560年)久万の城将宗円筑後守の家臣谷式部左衛門が叛き、長宗我部元親の軍勢を城内に引き入れたため宗円筑後守は城を捨てて逃げ、その後は長宗我部の家臣久武肥後守に与えられたといわれる。
安楽寺山城は西久万・中久万・東久万の境にある標高71.3mの小山に築かれている。 中腹には幕末に活躍した谷干城の生家や墓地がある。
安楽寺山城は山頂一帯に築かれていたとみられるが、墓地や畑として開墾されていたこともあって縄張についてはわかりづらくなっているが、山全体に削平地があり、山頂は南北に長い平地で北端に土塁があり、南下が二ノ段といわれる。周囲は高い切岸で、北側には堀切がある。
県道44号線から西久万の方に入ると谷干城の墓地の道標がある。ここから谷干城の生家を経て中腹にある墓地にいたる。この辺りから山にはいくつかの道がある。
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