築城年代は定かではないが大永年間(1521年〜1527年)本山清茂によって築城されたと云われる。 本山城主の本山清茂は岡豊城の長宗我部兼序を攻めてこれを討ち、長浜・浦戸など土佐中央部に領土を拡張し、その拠点として朝倉城を築城した。
永禄3年(1560年)長宗我部国親は本山茂辰の長浜城を急襲して攻め落とし、さらに追撃して浦戸城も落城したが国親が病に倒れ撤退した。国親が没して元親が家督を継ぐと、永禄5年(1562年)には朝倉城に攻め寄せ包囲した。周辺の諸豪族が長宗我部方に降っていったため、 永禄6年(1563年)本山氏は朝倉城を焼き払い本山城へと退いた。
朝倉城は朝倉駅の南西にある標高106mの城山に築かれている。 城内はかつて畑として開墾されていたこともあり、石積された段が多く、原形を留めていない部分も多いが、山腹に残る横堀や竪堀は圧巻の規模である。
朝倉城は城山と西尾根の金毘羅神社が祀られた茶臼ヶ森に遺構が広がる。
主郭部は城山にあり、広く削平された段の東に詰(主郭)、西に二ノ段が一段高く存在する。主郭には石碑と案内板が建っており、ここだけ公園として良く整備されている。主郭もかつては開墾されて畑となっていたこともあり、土塁は東側に部分的に残されているのみである。
西の二ノ段との間に石積された井戸が残るが、石積は地震で崩れたため後世積み直されたものという。二ノ段周辺は石積された段で、西端にl字の土塁が残っている。
主郭部から西の茶臼ヶ森へ続く尾根は大堀切で遮断され北側に土橋が架かる。その西側の曲輪は開墾の為か、不整形な溝や土橋状の地形が残る。そこから西へ続く尾根は緩斜面で現在も畑となっている。
西の茶臼ヶ森の曲輪は一段小高く、北側は裾野を空堀が巡る。北斜面には竪堀がいくつかあり、西尾根に堀切が続いて西端の曲輪があり、その先に二重堀切が残る。
なんといっても見所は主郭部の北、南、東山腹に残る巨大な竪堀や横堀の遺構で、南側と東側の竪堀は登山道としても利用されている。横堀は所により二重・三重となり、その起点・終点に竪堀が付いている所が多い。
登山口はいくつかある。わかりやすいのは朝倉駅の南側から高知大学の西を南下する県道38号線で、道路に登山口の道標が出ている。(地図)北城山集落内の車道で上は農道となってかなり上の方まで車で行くことができるが、駐車ペースがないので車は平地に置いてきた方が無難である。
最寄り駅(直線距離)