築城年代は定かではないが本山氏によって築かれたと云われる。 本山氏の出自は詳らかではなく、清和源氏吉良流の八木氏、平氏、但馬国造八木氏など諸説あり定かではない。
戦国時代土佐七雄の一人に数えられた本山氏は、天文年間(1532年〜1555年)本山茂宗の頃には高知平野へ進出し、朝倉城を拠点として一大勢力を築くまでに至った。しかし、茂宗の子本山茂辰の代になると一条氏の庇護を受けて岡豊城主に復帰した長宗我部国親との争いが本格化し、永禄6年(1563年)には高知平野の拠点である朝倉城を破棄して本山へ退くまでに圧迫された。その後も長宗我部元親によって攻め込まれ、本山城も破棄して瓜生野に逃れたが最後は長宗我部氏の軍門に降った。
本山城は本山町の市街地の南にあり、北へ張り出した尾根の先端に築かれている。
本山城は南背後の尾根を大堀切で断ち切って独立させた城台に、三段の削平地を築いている。 日本城郭大系によれば、城址にはかつて森林測候所とその所員の宅地があり、西側の石垣の組まれた広い削平地は射的場が造られたときに造成された所だという。したがって、現在ある石垣や石段などは城の遺構ではない。
本山町役場の南にコミュニティセンターがあり、ここに本山城の巨大な案内板が設置されている。登山口は十二所神社の近くにある。本山小学校の西側の車道を南の山腹へずんずん登っていくと正面に「十二所神社」がある。参道から右奥を見ると一本杉が見えるが、ここが城山である。登山口はわかりづらいので神社中腹の鳥居の所まで登ると右奥に墓地があるので、その中の道を奥へ進むと城山へ続く遊歩道に合流する。
最寄り駅(直線距離)