築城年代は定かではないが長宗我部氏によって築かれたと云われる。 長宗我部氏の出自は詳らかではないが、一般的には秦氏の後裔を称し、平安時代末期から鎌倉時代初頭に秦能俊が信濃国より土佐に入国したことに始まるという。
長宗我部氏ははじめ長岡郡宗我部郷に住んで宗我部氏を称していたが、香美郡宗我部郷 に住んだ宗我部氏もおり、互いに区別する為、郡名の頭文字を取って「長宗我部」、「香宗我部」を名乗るようになったと云われる。
長宗我部兼序のとき、守護の細川政元を後ろ楯として土佐七雄の中でも抜きんでた存在となっていたが、永正4年(1507年)に細川政元が家臣によって暗殺されると、本山城主本山梅慶を中心として山田城主山田氏、吉良城主吉良氏、蓮池城主大平氏など諸豪族が連合を組み、長宗我部氏の岡豊城に攻め寄せた。緒戦で勝利したものの多勢に無勢で、岡豊城は落城し、長宗我部兼序は幼少の千雄丸(後の国親)を一条房家に託して城と運命をともにした。
永正15年(1518年)元服して長宗我部国親と名乗ると、房家の尽力によって長宗我部家の再興が叶い岡豊城主に返り咲いた。 国親は山田城主山田氏を謀によって滅ぼし、香宗我部氏には三男親泰を養子に送り込んで取り込むなど勢力を拡大すると、土佐の中心部に進出していた本山氏と争うようになった。
永禄3年(1560年)長浜城を急襲して攻め落とした長宗我部国親であったが、陣中で病を発症させると病没してしまう。家督を継いだのが長宗我部元親で、永禄5年(1562年)本山氏の拠点である朝倉城を攻めると、翌6年(1563年)には朝倉城を焼き捨てて本山城へ退き、後に長宗我部氏に降った。
その後、土佐一国を手中に治めると元親は四国全土へと勢力を拡げ、四国をほぼ統一したが、天正13年(1585年)羽柴秀吉による四国征伐によって降伏し土佐一国が安堵された。
元親は大高坂山城を築いて居城を移し、さらに浦戸城へ移った。元親の家督を継いだ盛親は関ヶ原合戦で西軍に属して改易となった。
岡豊城は国分川の北岸にある標高97.5mの岡豊山に築かれている。 現在は県立民俗資料館が併設され、城跡は公園として整備されている。
岡豊城は山頂に主郭(詰)を置き、西から南したに掛けて三ノ段、さらに西下に四ノ段と腰曲輪を配している。主郭の東尾根には土橋が架かる堀切を設けて二ノ段がある。 西尾根の峰には伝厩跡曲輪があり出丸となる。
主郭の北西側には横堀と連続竪堀の遺構があり、北尾根を二重堀切で遮断している。
国道32号線から県道384号線に入り県立民俗資料館を目指せば良い。この駐車場から遊歩道が整備されている。
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