築城年代は定かではない。鎌倉時代に中原秋家による築城とも云われるが、現在残る遺構は戦国時代のものと思われる。
山田氏は中原秋家の後裔で鎌倉時代に香美郡宗我郷・深淵郷の地頭として入部したと云われる。山田氏は後に土佐の七守護の一人に数えられる程の勢力を持った。しかし、天文年間(1532年〜1555年)の当主山田元義(基道とも)は猿楽を好んで武道を好まず、政治を疎かにしていた。重臣である烏ヶ森城主西内常陸・雪ヶ峰城主山田監物はこれを諌めたが、元義はかえってこれを遠ざけてしまった。
岡豊城主長宗我部国親の家臣吉田重俊は謀略を持ってまず西内常陸を討ち、大軍をもって山田城に攻め寄せた。山田監物が江村小備後によって討ち取られると、山田元義は韮生へ逃れ山田氏は滅亡した。
山田城は鏡野中学校の北西にある丘陵に築かれている。 山田城は大きくわけて詰(主郭)、二ノ段、茶ヶ森の三つの曲輪で構成する。全体的に良好に残っている。
主郭は丘陵の北の最高所にあり、東西に段を一段ずつ設け、北側に土塁を設けている。主郭の北側は大空堀が巡らされている。
二ノ段は主郭の南にあり、大空堀によって主郭と区画されている。ニノ段は四方に土塁が巡り、北西と南に虎口を開く。
茶ヶ森はニノ段から南西の尾根先頂部にあり、北東の尾根を堀切で遮断している。北側に土塁が残る。南西下には横堀があり、土塁の内側は石積されている。
以前この辺りにきたときには標柱が建っていた記憶があるのだが、今回は見付からず。
鏡野中学校の東にある山なので場所はすぐにわかるだろう。山へ入る道はいくつかあるようだが、一番わかりやすいのは中学校の東の平地に神社があり、そこから東へ向かって行くと墓地が見える。ここから山に入る道があり、それを進んだ所が茶ヶ森とニノ段との間にある堀切である。
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