築城年代は定かではないが吉良氏によって築かれたと云われる。 吉良氏は源頼朝の弟源希義の後裔と伝えられる。希義は源頼朝の挙兵に呼応して平家打倒の兵を挙げたが、平家の家臣蓮池城主蓮池家綱と平田俊遠によって襲われ年越山で殺された。
吉良氏は土佐七守護の一人に数えられる。吉良宣経は南村梅軒を招いて土佐南学の礎を築いたことで著明である。
天文9年(1540年)吉良宣直が城を明けて仁淀川へ狩猟に出かけた隙に、朝倉城まで進出していた本山茂辰は吉良城に奇襲を仕掛け落城。吉良宣直も本山氏に討たれ吉良氏は滅亡した。本山茂辰は吉良式部小輔茂辰と吉良氏を名乗っている。
永禄3年(1560年)本山茂辰は長宗我部元親と争うようになると次第に不利となり、永禄6年(1563年)拠点であった朝倉城を脱して本山城へ敗走した。このとき吉良城も破棄された。長宗我部元親は弟親貞を吉良城主とし、吉良左京進親貞と名乗らせた。
吉良城は仁淀川の東岸、吉良ヶ峰から派生した尾根が南へ伸びた丘陵の頂部に築かれており、現在は登山道が整備されている。
ほぼ同じ高さの峰が南北に2つあり、それぞれに曲輪群が構築され南北二郭で鞍部を堀切6で遮断している。この堀切6にはかつて竹橋が架けられていたが年々荒廃して完全に朽ちてしまっていた。
主郭はI1で南端に土塁、東側面に一部石積が散見される。主郭は発掘調査されており、柵列と考えられるピット群や掘立柱建物跡と考えられるピットも検出され、遺物の年代は15世紀後半から16世紀後半とされる。主郭I1の東側面には武者走りがあり、南のI2と北のI3を繋いでいる。
主郭の周囲は二重堀切10、堀切8、四重堀切7で遮断しているが、特に西の四重堀切7は圧巻の規模で、腰曲輪I3が横矢を掛けられる位置に配置されてる。
南峰の曲輪群IIは山頂部に細長い曲輪があり北端に巨大な穴がある。用途は不明であるが戦時中のものであろうか。
II1の南側面には曲輪II3とII4があり、吉良城のなかでは比較的広い曲輪である。II4の南側面には小ぶりな石を積み上げた高さ約1mの石積が確認できる。側面には竪堀3、4、堀切5があり、堀切5の南側の竪堀は麓付近まで落ちている。
曲輪群IIから西へ伸びた尾根には畝状竪堀群2が確認できる。現在の登山道はこの尾根に到達しているが、当時の道は谷から堀切6のあたりに登っていたのではないだろうか。
南西の大谷地区に登口があり案内板や道標が出ている。
車は春野弘岡上保育園の南側にある公民館の前などに駐車できる。
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