築城年代は定かではないが天正年間(1573年〜1592年)始めに波川玄蕃頭清宗によって築かれたと云われる。
波川玄蕃は長宗我部氏に降伏したのちは重用され、長宗我部元親の妹を妻に迎え、一条氏滅亡後は幡多郡山路城主となった。しかし、伊予国大洲に軍勢を進めた際に伊予河野氏の来援に駆けつけた小早川隆景と和睦を結んで引き上げたことから元親の怒りを買い、山路城を没収され波川城へ戻された。
天正8年(1580年)波川玄蕃は秘かに謀叛を企てたが露呈し、阿波国へ逃れたが、阿波国海部で自刃させられた。
波川城は標高171.5mの山頂に築かれている。山頂にある主郭には無線中継施設が建設されており発掘調査が行われたが、現在も土塁が巡る主郭は良く残されている。
主郭は山頂にあり周囲に土塁が巡る。南東側に虎口が開き、ここに石碑と案内板が設置されている。主郭の北東下、北西下には腰曲輪らしき平坦面があるが、公園であるので元々の地形かどうかわからない。南尾根は公園へ続く車道により破壊されており、堀切は現状確認できない。
北東麓にある波川本願寺は玄蕃の菩提寺で、波川家のものと伝えられる五輪塔が多く残されている。
波川駅の西側から奥の谷へ向かっていけば玄蕃城の道標が出ている。そのまま車道は林道として山上に通じており、山頂の手前に大きな駐車場がある。
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