築城年代は定かではない。城主は山路氏、波川玄蕃、光富次郎兵衛という。
波川玄蕃は波川城主であったが、長宗我部元親に降ったのちは娘婿となって重用され山路城主となった。しかし、伊予国大洲に軍勢を進めた際に、伊予河野氏の来援に駆けつけた小早川隆景と和睦を結んで引き上げたことから元親の怒りを買い、山路城を没収されて波川城へ戻され、その後切腹を命じられた。
その後は光富次郎兵衛が城主となり、佐賀城には子の権之助を置いた。
山路城は四万十川に面した標高72mの独立した山に築かれている。
主郭は山頂にあり周囲を低い土塁が巡る。それを取り囲むように二郭があり、東尾根と南尾根にそれぞれ段曲輪が拡がる。城の規模はやや大きく、山腹にまで曲輪が拡がり、北山腹や南尾根には竪堀や堀切が残る。
南麓に曽我神社があり、その境内から山腹にある津波避難所まで階段がある。ここから登っていけば簡単に城域に至る。
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