築城年代は定かではないが吉弘氏によって築かれたと云われる。 吉弘氏は吉広城を居城としていたが、七代吉弘親信あるいは八代氏直のとき屋山城を築いて居城を移したと云われる。
九代鑑理は大友氏の重臣として臼杵鑑速や吉岡長増とともに「三老」の一人に数えられた。
十代鎮信は大友軍の大将として毛利氏と戦い、筑前国立花城督を務めるなど重用されたが、、天正6年(1578年)耳川合戦で島津氏と戦い討死した。
十一代統幸のとき大友氏は滅亡し、関ヶ原合戦で西軍に属して再興軍を率いた大友義統に従い、石垣原合戦で黒田氏と戦い討死した。
屋山城は古刹長安寺の東背後に聳える標高543.3mの屋山(八面山)山頂に築かれている。 この城は詰城で平時は筧城に居たと云われる。
切り立った岩山の山頂に南北に伸びる尾根に曲輪を連ねる縄張りで、南北の規模は400m以上あるが、全体的に曲輪の段加工などは荒く自然地形が多く残り、大きな石がゴロゴロしている。中央やや南よりに堀切が一条あり、北端近くに浅い堀切が一条残っている。
主郭は山頂で金比羅神社が祀られており、北端部の曲輪には屋山城の大きな石碑が建っている。南端部にはかつてテレビアンテナが建っていたようであるが現在は撤去されている。
この南端の曲輪が南西に伸びた尾根が現在の登山道でもあるが、この南西に伸びた尾根に長い竪堀を連続して配しており、一番の見所になっている。
長安寺には吉弘氏の供養塔(宝篋印塔)があり、吉弘氏七代以前は吉広城近くの永泰寺、八代以降は筧城近くの金宗院跡に墓碑がある。
登山道は西山腹にある長安寺にあり、そこから未舗装林道が南西尾根下まで続いており、そこから山頂まで山道が付いている。