文和2年・正平8年(1353年)真玉重実によって築かれたと云われる。 それ以前に在地豪族の大神系真玉氏が居たが、文和2年に大友氏一族の木付頼重が兄頼直より真玉荘七十町を譲られ大友系真玉氏の祖となった。
天正18年(1590年)真玉氏9代統寛は豊臣秀吉による小田原城攻めに参陣するため竹田津港に向かう途中で家臣山田兼佐の謀反により落命。これによって真玉氏は滅亡した。
真玉城は現在の真玉寺とその北のグラウンドになっている辺りに築かれていた。
真玉寺は周囲に水堀が巡る形状で、参道入口に真玉氏居館跡の看板がある。真玉城はこの北側一帯を含み、かつて高校があった所で現在はグラウンドになっている。グラウンドの北から西に掛けて土塁地形があり、その外側に堀跡らしき水路なども残されている。