築城年代は定かではない。鞍懸城はこの佐野にある鞍懸城と南の奥畑にある鞍懸城がある。
鞍懸城は南北朝時代の正平4年(1394年)や応永年間(1394年〜1428年)の文書に登場するが、これらは奥畑の鞍懸城と考えられている。
天正8年(1580年)田原親宏の跡を巡る家督争いで、大友宗麟が次男親家に田原家の家督を継がせようと画策した。これに対して養子となっていた田原親貫は毛利氏に援軍を求めて大友氏と戦っており、このとき鞍懸城は田原氏最後の拠点となったが落城している。
また一説に竹中重利あるいは黒田氏など織豊系大名によるものとする見解もある。
佐野鞍懸城は河内小学校の北東、引瀬神社の北背後に聳える標高110m程の山に築かれている。
佐野鞍懸城は本丸とそれを取り囲む二の丸からなる小さな城であるが、総石垣造りで近世初頭の遺構を残している。
山の南端の最高所に天然の岩を取り込みながら石垣を組み上げた本丸があり、同じく石垣造りの二の丸がその下を取り囲んでいる。二の丸は南から西側は帯曲輪程度で北がやや広くなっているものの、全体として曲輪の規模は小さい。
主郭の虎口は北西にある虎口3で、外側にスロープが伸びている。虎口の脇は石塁と立石になっている。
曲輪IIの虎口は北東隅の虎口1と西の虎口2がある。虎口1はスロープの下が折れているが外側の導線は不明。虎口2は非常に狭い。
堀切1は土橋を中央に残し、土橋には立石がある。東の堀下方にも石列があるが、虎口1との関連は不明。
西麓から林道が入っており、ここから山に取り付くことができる。林道をしばらく行くと右側へ堀底道のようなものがあり、それを進むと北の鞍部に到達できる。ただここから南の尾根に登る辺りは荒廃した竹藪で歩きづらい。
かわりに林道の入口から少し入った所に古い墓地がある。ここから山腹を直登すると比較的藪がなく登りやすい。
西側の道路にある余白に駐車可能。
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