築城年代は定かではない。鞍懸城が史料に登場するのは南北朝時代と戦国時代の天正年間で、前者がこの奥畑にある鞍懸城、後者が佐野の鞍懸城と考えられている。
南北朝時代の応安2年(正平24年、1369年)に鞍懸城にこもる南朝方勢力を北朝方の田原直貞が攻めている。
奥畑鞍懸城は奥畑集落の東側に聳える標高392mの鞍懸山に築かれている。
山頂の主郭部は削平はやや甘く、北西側に土塁状の高まりを残し、北東側に向かって不明瞭な段曲輪を配している。南背後の尾根は堀切2で遮断しており、それより南側は岩が露出した地形になっている。
主郭の北西下に南北に長い曲輪IIがあり、中央付近に石塔の一部のような石が一つ残っている。特に文字などは刻まれていないようである。
北尾根を遮断する堀切1は内側が大規模で外側二条は小規模であるが、ともに西に竪堀を長く伸ばしている。
奥畑集落の最奥から山道が谷筋に進んでおり、そこから切り立った崖の間の谷間を登るルートにピンクテープが続いている。登山道入口の札がぶら下がっているが、道案内は無いに等しい。地元のかたの話だと、尾根を登るルートも存在しているようである。
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