応永6年(1399年)宇都宮親景によって築かれたのが始まりとされる。 佐田氏は豊前宇都宮氏の庶流で、永和元年(1375年)宇都宮親景が佐田荘地頭職となり飯田城衆となった。応永6年(1399年)青山城を築いて居城とし、城井郷菅迫から佐田へ移り、佐田氏を称したことに始まるという。
豊前国が周防の大内氏の支配下にあったときには、佐田俊景が宇佐郡代に任命され、佐田隆居まで宇佐郡代を務めていた。大内氏が滅亡すると、弘治2年(1556年)頃に豊後の大友氏に従い、隆居の嫡男は大友義鎮より「鎮」の字を賜り鎮綱と称した。
天正6年(1578年)大友氏が耳川合戦で島津氏に大敗し、多くの家臣が離反したが、佐田氏は大友氏に従い続け、天正11年(1583年)に安心院麟生が離反して龍王城に立て籠もったときには、本領安堵の条件を取り付けて開城させた。
天正15年(1587年)黒田孝高が豊前国中津に入部すると、佐田氏は大友氏を頼って豊前を去ったが、文禄2年(1593年)大友義統が改易となると、佐田に戻り黒田氏の客分となった。その後、元和元年(1615年)に豊前の細川忠興の家臣となり、細川氏が肥後へ転封となるとそれに従った。
青山城は佐田小学校の北東に聳える標高300m程の山に築かれている。 別名佐田城とも呼ばれるこの城は、山頂部の城を中心に各尾根先に独立した砦を構えており、それらを含めて青山城とされるが、ここでは各砦毎に分けて紹介している。なお砦の名称のアルファベットは『大分の中世城館』による縄張図での曲輪群の名称をそのまま利用している。
青山城は主郭部Aを中心に支尾根に砦群BCDEFGが存在している。縄張には共通している部分が多く、時期差や築城主体は同一と考えられる。
縄張の共通点としては以下のような点が指摘できる。
1.曲輪の造成は甘く、削平してしても低い段差で、段々に造成してる部分が多い。
2.土塁は主郭の一部に1m以上ある土塁が確認できるが、大半は50cm未満の低い土塁になっている。
3.虎口は小さな平入が基本で複雑な虎口は確認できない。唯一主郭部の虎口A2に土塁の内折れが確認できる。
4.石積は丸い人頭大の石を用いたものと、こぶし大の石を用いたものがあり、主郭部のみではなく砦にも確認できる。また一部土塁にこぶし大の石を固めたような遺構も確認できる。
5. 堀は垂直に近い横堀を多用するが、完全に囲い込むのではなく、横堀と横堀の間が空いている部分が多い。竪堀は横堀と結合するもの、横堀の外側を起点とするものが混在する。
6. 各砦の堀は横堀で側面を遮断し、城内側(尾根背後)も堀切で遮断するが、城外側(尾根先)は堀切で遮断していない。
主郭部は土塁囲みのA1を中心に横堀で囲まれたA2、A3、A4、そして横堀の外側にもA5、A6の曲輪群が確認できる。全体的に横堀で囲んでいるが、特に南方の堀が厳重である。
主郭の南側に平入の虎口A1が開いており、この脇にも石が確認できる。曲輪A4の北端には東側の土塁が内折れした虎口A2があり、外側は横堀の間を土橋が架かっており、曲輪A6に続いていたと考えられる。
県道42号線沿いにある佐田小学校の前に登山道の入口があり、案内板や標柱が建っている。車は隣の公民館に駐められる。
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