天慶3年(940年)藤原純友によって築かれた極楽寺城が始まりと云われる。
本郭的な城郭が構えられたのは明応8年(1499年)で、周防の大内氏が大友氏に備えるために妙見嶽城を築き杉氏などの城番を置いた。
天文元年(1532年)大内方の宇佐郡衆が籠もる妙見嶽城を大友氏が攻撃し激戦となった。 弘治3年(1557年)大内氏が滅亡すると妙見嶽城は大友氏の手に落ち、豊前に侵攻したが豊前攻めは失敗し、妙見嶽城には田原親賢(紹忍)が入り毛利氏に備えた。
天正11年(1583年)大友宗麟の三男で田原親賢の養子となった田原親盛が城代となり、天正14年(1568年)島津軍が府中へ攻め入った際には、府中から逃れてきた大友義統を一時匿った。
妙見嶽城は院内icの北西に聳える標高444mの妙見山山頂に築かれている。 現在は山頂まで登山道が整備されている。
妙見嶽城は山頂の主郭を中心に南東、北、北西、西の各方面に伸びた尾根に曲輪を配している。主郭は山頂にあり、南端付近にはかつて「芝矢倉」が建っていた方形の土壇が残っている。
南東に伸びた尾根は長い曲輪の先に小高い曲輪があり、東端部からは腰曲輪が三段続く。その下方には放射線状になった畝状竪堀群があり、南山腹一帯を畝状竪堀群が覆っている。
北へ伸びた尾根は主郭から段々と腰曲輪が続き、先端がやや高くなっている。現在の登山道はこの先端部から東西に伸びた帯曲輪を伝って北西尾根に出ている。
北西尾根はの曲輪に「手洗石」と呼ばれる変わった石があり、北西に伸びた尾根先を連続堀切で遮断している。この曲輪群も南山腹に畝状竪堀群を配している。この北西尾根から城内に入る道は外側に土塁と竪堀を設け、通路をコの字に屈折させるなどの工夫がなされている。
主郭から西へ伸びた尾根は他の尾根に比べ曲輪は小さいものの、主郭下から連続堀切が続き、堀切から伸びる竪堀は長大で、特に現在の登山道のある西の谷間に向かって落ちる竪堀は圧巻である。
院内icを降りて国道387号線を南へ進むと香下ダム入口の案内とともに妙見山登山道の道標が出ている。そこからダムへ向かって進み、さらに奥に入っていくと登山道の案内板があり、その先に駐車スペースがある。(地図)
最初南東麓の香下神社から登ろうと思ったのだが、こちらの山道は現状では整備されていないようである。
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