築城年代は定かではないが正応年間(1288年〜1293年)に松山壱岐守義英によって築かれたと云われる。松山氏は伊予国温泉郡府中より松山壱岐守源義英が宇佐郡高村に来住し、松山城を築いたのが始まりという。
天正14年(1586年)松山義寛のとき、大友義統によって攻められ落城し、子孫は庄屋になったという。
松山城は現在の下高の東高村一帯に築かれていた。 集落の中に定林庵(地図によっては完林庵)という寺院があり、多数の石仏が祀られている。 初代義英の法号が「定林院殿法蓮大居士」との事なのでそこから名付けられたものであろう。
松山城はこの一帯で数軒の宅地となっている。周囲には堀跡と思われる水路と土塁が残り、大乗妙典塔(松山氏)という石塔もある。