詳細不明。『土豪の城-豊前武士と戦国争乱(中津市歴史博物館)』では豊前一揆のときの豊臣方の陣城ではないかと推測している。
三保山城は標高178.9mの三角点のある三保山から西へ伸びた尾根に築かれている。その近くには「賀来どんの墓」と呼ばれる大畑城主加来統直の墓もある。
三保山城は土塁と石のみの陣城であり、一見すると単なる境界土塁あるいはシシ垣のようであるが、三角点のある山頂部は土塁が屈折し、食い違い虎口も設けられており、城郭遺構なのは間違いない。
土塁は内側、外側ともに高さが同じくらいで尾根のほぼ中央にあり、どちらが曲輪内なのか一部を見ただけでは判断できない。しかし山頂部は虎口の形状や張出しがあるため、かろうじて城内が南側であることがわかる。土塁はところどころ開口し石がおいてあるところもあるので本来の虎口の可能性もあるが、食い違い部分以外ははっきりしない。また北辺の土塁は北にやや張出す構造になっているが、食い違い虎口には横矢がかからない。
山頂部から西へ続く尾根にところどころ土塁が続いており、これを辿っていくと西端の土塁にたどり着く。西端部分では尾根に沿った土塁だけではなく南に屈折した土塁も残されており、このあたりは曲輪らしさがある。
南山腹をとおる道路沿いに「金現観音堂」の道標があり駐車可能である。そこから少し北西に歩くと「賀来城主の墓」の道標が出ている。
城へは山頂に向かってひたすら登ってもよいし、「賀来城主の墓」に続くビニールテープ沿いに一旦西尾根側に回り込んでも良い。一部シダが繁殖しているが、概ね見学し易い。
最寄り駅(直線距離)