築城年代は定かではない。山名氏の木崎城が豊岡城の前身であったとも考えられている。
天正8年(1580年)羽柴軍が但馬に侵攻し有子山城の山名氏を下して但馬を平定すると宮部継潤が豊岡城主となった。
天正10年(1582年)羽柴秀吉が鳥取城を攻め落とすと継潤は鳥取城へと移り代わって木下重堅、天正12年(1584年)には尾藤知定、天正14年(1586年)には明石則実、文禄4年(1595年)には福原道高と次々と城主が替わった。
慶長3年(1598年)には杉原長房が豊後国杵築より入封する。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で長房は西軍に与して丹後国田辺城を攻めたが、戦後所領は安堵された。しかし、承応2年(1653年)杉原氏三代杉原重玄が嗣子なく没して杉原家は改易となり、豊岡は天領となった。
寛文8年(1668年)丹後国田辺から京極高盛が三万五千石で入封このとき既に豊岡城は廃城となっており、麓に豊岡陣屋を築いた。
豊岡城は豊岡市の中央に聳える標高48m程の丘陵に築かれており、現在は神武山公園となっている。
中世の豊岡城は山城で、その後平山城として変貌を遂げていったが、現在城山は大きく改変されてしまい、見るべき遺構はあまりない。
本丸は山頂にあり案内板が設置されている。この本丸の北西隅には五角形の小さな天守台があったのだが、取り除かれて消滅している。本丸の虎口は東側にあり石垣があったが、現在はこれもなくなっている。
本丸の西下にある貯水タンクのある所が笠の丸、その北に萩の丸などがあった。未確認だが、本丸の南西斜面には三条の竪堀が残っているという。
北麓にある市立図書館付近の駐車場が利用できる。
最寄り駅(直線距離)