築城年代は定かではないが南北朝時代初期に築かれたとみられている。
元弘3年(1333年)但馬国守護太田守延は京へ上って六波羅攻めに加わったが、乱戦の中で討死し、太田氏は衰退した。北朝方勢力は建武3年(1336年)但馬守護として今川頼貞を任じて但馬の南朝方勢力の駆逐を謀った。これに対して南朝方は翌建武4年(1337年)に新田義貞の子義宗を三開山城に迎えて拠点としたが、足利直義は「但馬凶徒の誅伐」を命じこのときに三開山城も北朝方の勢力の手に落ちたとみられている。しかし後に三開山城は南朝方の勢力に戻っていたとみられ、康永3年(1344年)丹波国守護となった山名時氏は、前の丹波国守護萩野朝忠を追って但馬に入り、三開山城を攻略して拠点とし但馬守護を称したという。
その後の動向は詳らかではないが、天正8年(1580年)羽柴秀長により丹波侵攻の際に落城したと地元では伝えられている。
三開山城は標高201.6mの三開山山頂に築かれている。 現在は複数の遊歩道が良く整備され、山頂付近は草木が伐採されて、遺構の状態も良好で散策しやすくなっている。
三開山城は山頂の主郭を中心として東西と南尾根に階段状に曲輪が並び、北側の中腹には千畳敷と呼ばれる居館跡と推測される地や瑞宝寺跡が残っている。
主郭は山頂にあって東西に長い。北下の帯曲輪は西端に竪土塁を設けて横移動を妨げている。主郭から西へは四段の曲輪、東へは一段の曲輪があり、その先に二条の堀切がある。北斜面には竪堀があり、西側には連続した畝状竪堀群もある。南尾根には三段の曲輪があり、v字の堀切が二条ある。
北側の中腹には千畳敷と呼ばれる石組みのある方形の平地、東側の谷間に湧き水の井戸、その東にも小高い段があり、さらに東に瑞宝寺跡がある。
登山口は神美小学校、駄坂地区、瑞峰寺、大篠岡地区と多くのルートがあるようです。今回は神美小学校から登りましたが、小学校脇の公民館に駐車できます。
神美小学校からの登った場合、主郭を目指し、南尾根の曲輪群を見たあと、北側の千畳敷跡・瑞宝寺跡を見て下山するルートで歩くと効率良く遺構を見て回ることができます。
最寄り駅(直線距離)