築城年代は定かではないが山名氏によって築かれたと云われる。山名氏初期の居館で、此隅山城へ移るまで続いた。
正平9年(1354年)南朝方の石堂頼房が丹波を攻撃するさいに九日市に到着したので、伊達三郎蔵人朝綱に宿南の陣に馳せ参じるよう命じている。この頃から九日市が山名氏の居館であったことが知られる。
文明3年(1471年)山名氏の一族でありながら東軍の細川氏に与した山名是豊の子七郎頼忠が、九日表に乱入し対岸に布陣した。九日市城には留守居役の垣屋越前入道宗忠が居たが、宵田城から宗忠の子垣屋平右衛門尉が援軍に駆けつけ、頼忠方の奈佐太郎を撃ち破ると頼忠は敗走した。
その後の動向は定かではないが、延徳3年(1491年)頃までは山名政豊が九日市に在所しており、それ以降に此隅山城へと移っていったと考えられている。
九日市城の場所は定かではないが、現在の九日市上町から中町一帯と考えられている。この辺りは字「御屋敷」で、その一角に中山権大納言親通卿と山名時義の娘玉露夫人との間に生まれた日真大和尚の誕生井戸が残されている。
北側には山名氏の菩提寺で日真大和尚が幼少期を過ごした妙境寺(現在の妙経寺)があり、そこには南北朝末期とみられる「妙経寺の題目印塔」、山名氏のものと思われる「妙経印中世石造供養塔群」(いずれも市指定文化財)が残されている。
この地図の位置が「日真大和尚の誕生井戸」で字御屋敷の一角である。
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