永享2年(1430年)楽々前城主垣屋隆国が築いて、二男の垣屋隠岐守国重を城主とした。
国重の子、垣屋遠忠は文明18年(1486年)播磨国英賀で赤松政則と戦って討死した。
天正8年(1580年)羽柴秀吉による第二次但馬侵攻では、鶴ヶ峰城主垣屋光成の弟、垣屋峰信が宵田城に籠もり、宵田表の合戦で一度は勝利したものの、その後敗れて楽々前城に逃れ討死した。宵田城主国重の家系である垣屋国宣はその後、楽々前城主となっていたが、関ヶ原合戦後に所領を没収された。
宵田城は山塊から北東に付きだした標高154.8mの城山山頂に築かれている。 現在は一部鉄塔が建っているものの、城山公園として山頂から山腹一帯まで木が伐採され遊歩道も良く整備されている。
主郭は山頂にあって東西に長い楕円形で、南西側に低い土塁が残っている。南に大手、北に搦め手の虎口がある。大手側から降りると東下の二の丸があり、ここから北尾根に三段の馬蹄形の曲輪があり、一番上が三の丸とある。
一方北の搦め手側から降りると、主郭北下の帯曲輪から階段状の小郭を経て鉄塔の建つ中腹の曲輪に至る。鉄塔によって土塁が欠損しているようであるが、西側に幅広の土塁があり、付け根の部分に屈折した虎口が残っている。ここから谷を隔てた東側の三の丸との間に竪堀が残る。
主郭から西へ続く尾根は二重堀切によって遮断されている。
城山の南東麓にある鹿島神社に登山口がある。
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