築城年代は定かではないが応永年間(1394年〜1428年)に垣屋隆国によって築かれたと云われる。 垣屋氏の出自については詳らかではないが、垣屋重教が山名氏に従って但馬へ入部したのが始まりとされ、当初は奈佐亀ヶ崎城を居城とした。重教の子、垣屋弾正時忠は明徳の乱で山名時熙を助けて討死する勲功を挙げた。この時忠の子が垣屋隆国である。
楽々前城の「中の丸」と呼ばれる道場地区背後の城山山頂部分は楽々前古城とも呼ばれ、垣屋氏以前に安田氏が居城としていたとも考えられている。
垣屋隆国の二男国重は宵田城主、三男国時は轟城主、四男永喜は知見村に分知されて郷士となった。隆国の後は嫡子満成が継ぎ、その子垣屋政忠は文明18年(1486年)蔭木城で赤松政則の軍勢と戦って討ち死にした。政忠の子、垣屋満成は鶴ヶ峰城を築いて居城を移したという。
楽々前城は日高町佐田から日高町道場にまたがる標高300mの山頂に築かれている。 山頂の主郭部から北端の道場方面に伸びる尾根に向かって曲輪が連なり、楽々前古城部分を除くと、南北約600m程の規模になる。主郭部付近の曲輪は広く切岸も高い。中腹にある西側の畝状竪堀群はその規模といい残存具合といい、最大の見所になっている。
西麓の常光寺一帯は「伝家老屋敷」であるが、お寺を移築した際に土地は削平されたようである。このお寺には本丸から出土したと伝わる茶釜が保存されている。また三方にある隆国寺は垣屋隆国の名から命名された寺で垣屋氏の菩提寺。 伊府には垣屋隆国夫妻の墓と伝える宝篋印塔が子孫の方の墓地(地図)に残っている。
主郭部は山頂の東西に長い曲輪を中心とし、南は帯曲輪程度であるが、南を除く三方に高い切岸の曲輪が無数に拡がっている。特に主郭の北東部に一段低く張り出した小郭とそれを巡るように設けられた帯曲輪は主郭の防御力を高めている。北西下付近は石積を伴う壇があり、主郭部付近には随所に石が点在しているが、切岸面には石積は残っておらず、屋敷か畑跡のような壇と石塁のようなものが残っているのみである。
山頂から南東に伸びた尾根は二条の堀切によって遮断されている。北へ伸びる尾根は東西二つあり、東側の尾根には高い切岸の曲輪が数段築かれ、一番下の段は切岸の裾の両サイドを竪堀にしている。
西側の北へ続く尾根には道が残り、その脇に階段状の曲輪が続いている。 中腹の曲輪群は南北二段の曲輪があり、北側は城内で唯一三方を土塁で囲まれた曲輪になっている。ここの西側の斜面には畝状竪堀群があり、高い土塁部と深く長い竪堀が非常に良好に残っている。この先も土橋を経て曲輪が連なるが、先端付近に至るに従って切岸も曖昧になっていく。
先端の標高154m付近に築かれている中の丸は、南背後は急峻な地形をそのまま利用し、曲輪の南端部には櫓台状の高まりがある。この辺りは薮化していたような感じがするが、訪れた時はきれいに刈られている。ここから尾根先に向かって小段が続いているが、途中一ヶ所だけ堀切が設けてある。
整備された道はないようです。西麓にある常光寺から登りましたが比較的良好な人工林であったため、それほど苦労せずに登ることができました。ただ踏み跡はいろいろな方向に向かっています。私は山腹を回り込んで南東側の尾根にある堀切から散策し始めました。
もう一つ、北側の中の丸側からですが、途中からは明瞭な山道があり登山道になっています。中の丸までがどこから通じているのかわかりませんが、マーキングテープにそって降りると墓地の裏に出てきました。ここは静修小学校から南の道場公民館前を通って橋を渡った先になります。(地図)
最寄り駅(直線距離)