築城年代は定かではないが垣屋国時によって築かれたと云われる。 垣屋国時は楽々前城主垣屋隆国の三男で轟城主となったと伝えられる。
永禄12年(1569年)織田信長の部将羽柴秀吉が但馬へ侵攻すると、垣屋氏は織田方と毛利方とに分かれることとなり、轟城主の垣屋豊続は毛利方であった。 天正3年(1575年)垣屋豊続は鶴城主の田結庄是義がいない隙を突いて鶴城を攻め、急変を聞いて戻ってきた是義と野田で合戦しこれを撃ち敗った。これによって是義は正福寺で自刃した。(野田合戦)
天正8年(1580年)羽柴秀長を大将とする第二次但馬侵攻で、山名氏は戦わずに有子山城を開城し降伏した。これに対して主戦派であった轟城主垣屋豊続は但馬の軍勢を西村丹後守の籠もる水生城に集結させ、最後の抵抗を試みたが落城した。豊続は城を脱して余部城、さらに田井城へ移って抵抗したが最後は降伏した。
轟城は竹野川に大谷川が合流する地点の北西に聳える標高152mの山頂に築かれている。
主郭は山頂にあり秋葉神社が祀られていて、この主郭を中心に北西、北東、南東の尾根に曲輪を配している。主郭部から北側の曲輪群は総じて広く、切岸も高く明瞭である。
北西尾根には大堀切があり、その先に小郭を挟んで北端に堀切が付く。 北東尾根が大手であろうか、主郭下の二郭から腰曲輪が二段あり、その北下に堀切、北東下にも堀切がある。北東下の堀切は堀切から両側に伸びた竪堀の間の尾根に連続竪堀を配している。側面ではなく尾根の部分に連続竪堀を設けるのはこの辺りでは余り見た記憶がなく、新潟県などで見られる遺構である。
主郭から南東へ伸びた尾根は細長い曲輪が段々と続き、南端は土塁の付いた曲輪で、南尾根に二条、東下にも一条の堀切が残っている。
蓮華寺の南西に聳える山が轟城で、秋葉神社への参道が東麓の県道1号線沿いにあるのだが、入口が県道から見えず埋もれていて発見し辛い。参道入口は県道沿いにある「竹野生コンクリート」の敷地の奥にあり、入口の奥に見える電信柱付近の山側を探せば山道がある。これを少し登ると立派な鳥居がある。(地図)
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