築城年代は定かではない。
永正年間(1504年〜1521年)頃に竹内治部の居城であったというが定かではない。 関ヶ原合戦後に筑前に入封した黒田長政は、黒田六端城の一つとして黒田二十四騎の一人三宅若狭守家義に三千六百石と代官領一万石を与えて城主とし、家義は船手頭を務めた。元和の一国一城令によって廃城となった。
若松城は戸畑と若松の間に浮かぶ中島に築かれていた。幕末には砲台も設けられていたようであるが、明治14年の洞海湾修築工事の一環で島は削り取られ、完全に消滅した。 中島は戸畑と若松を結ぶ若戸大橋付近にあったという。
現在も若松と戸畑との間に舟渡があり、江戸時代にはここに州口番所が設けられて人や品物の出入りを監視していた。