天文元年(1532年)小城蔵人宗次によって築かれたと云われる。
天正8年(1580年)長岩城主野仲鎮兼によって攻められ落城した。天正15年(1580年)には八並右京の居城であった。
八並城は緑ヶ丘中学校の南西に築かれていた。 北側を東西に走る県道663号線が古代の官道であり、それに隣接した地に築かれている。
八並城の主郭部は「長者屋敷遺跡」(国指定史跡)と呼ばれる古代下毛郡の郡衙と重なっているようで、発掘調査によって正倉が検出されたようである。 主郭部の北側にある宅地部分が家臣団の屋敷跡と云われ、現在でも民家の裏側などには土塁や掘跡が残されているようである。