天慶4年(941年)源経基が藤原純友の乱に備える為に築いたと云われる。
鎌倉時代に宇都宮氏に属して被官となった広津氏が居たが、広津氏は田部系あるいは宇都宮の一族とも云われる。
弘治3年(1557年)毛利氏に内通した秋月文種方の山田城主山田隆朝が広津へ攻め寄せると、広津城に居た大友方の杉隆哉・佐田隆居と戦った。
豊臣秀吉による九州征伐の後、豊前に入部した黒田孝高が中津城を築くと廃城となった。
広津城は山国川西岸の標高30m程の天仲寺山(広津山/臥牛山とも)と呼ばれる丘陵に築かれていた。 山腹には中津藩小笠原氏の菩提寺であった天仲寺があったが現在は廃寺となっている。
現在山頂は公園として遊歩道が付いており、小笠原長次の墓碑や天仲寺古墳の案内板が設置されているが、広津城に関するものは全く見あたらない。遺構もよく分からず、東屋のある平地が曲輪跡で遊歩道が一段低くなっている部分が堀跡であろうか。道路を挟んだ北側にも公園(神社)がある。