築城年代は定かではないが山田氏によって築かれたと云われる。 山田氏は宇都宮氏一族で政房を祖とする。八田城の麓に平治の居館を構えており、八田城のさらに詰城がこの山田城とされる。
弘治3年(1557年)大友義鎮の命を受けた田原親宏によって攻められ落城、山田安芸守隆朝 は逃れて毛利元就を頼ったが、子の満千代丸は討ち取られた。
天正15年(1587年)城井鎮房が挙兵すると山田大膳輝家もこれに呼応して山田城に籠もり、黒田氏に反旗を翻した。黒田氏は輝光の従兄弟にあたる中間六郎左衛門統種を味方に付け、謀略を用いて山田城に攻め入り輝家は討ち取られた。大村城主であった輝家の子常陸介親実は黒田氏に降伏したが、天正16年(1588年)中津城にて謀殺され、山田氏は滅亡した。
山田城は櫛狩谷城とも呼ばれ、櫛狩谷集落の西背後、中川に合流する二つの支流の間に聳える尾根の中程、標高250m付近に築かれている。
東西に伸びた尾根上に曲輪が配され、東西両端を多重堀切で遮断している。南北側面は切り立った崖地形になっている部分が多い。
東の曲輪Iが主郭と考えられるが、尾根上全体を削平しているわけではなく、東側の切岸に面した部分を削平して、西側は自然地形のままの部分が多い。
東尾根を遮断する四重堀切2は主郭下の堀の外側の土塁が高く、東の三条は浅く堀底を仕切る形になっている。主郭Iの南側面には横堀から派生する畝状竪堀群3があり、この城最大の見どころである。
主郭Iと曲輪IIの間には堀切4がある。堀底には土橋状の仕切り土塁?があり、北側は石積されている。
西の曲輪IIはまとまった平坦面を備えているが、削平や切岸は甘い。
西尾根を遮断する多重堀切6も東端の堀切が深く、外側の堀は浅い。堀切の間の土塁部分には石積を伴う。竪堀5は現状西尾根といききする山道を遮断する形で竪堀を配している。
県道230号線を奥へ進めば櫛狩谷の集落にたどり着く。集落の入口に公民館があり、その脇に山田城の案内板が建っている。
登山口は北側の道路沿いにあり、川を渡る橋のところから山に入る。道はわかりづらく、しばらく谷筋に登って行くと自然と尾根上に達するので、そこから尾根伝いに登っていけば良い。
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