建久9年(1198年)野仲重房によって築かれたと云われる。
重房は豊前国守護宇都宮信房の弟で、下毛郡野仲郷を分与され野仲氏を名乗った。
南北朝時代に野仲道棟・道春父子は北朝方として高勝寺城を攻め、永正5年(1508年)野仲興道は周防国大内氏とともに上洛し、船岡山合戦に参陣した。
戦国時代には大内氏に属すが、大内義隆が陶晴賢に討たれ大友宗鱗の弟晴英が大内義長と改名して大内氏を継ぐと、大友宗鱗が豊前に勢力を伸ばす。 この時野仲重兼は籠城して大友氏と対したが降伏、大友宗鱗はその武勇を賞して"鎮"の字を与え、野仲鎮兼と称した。
黒田氏が中津城に入封すると、野仲氏はこれに従わず、後藤又兵衛を先陣とした黒田長政に攻められ落城、野中氏は滅亡した。
「銃眼のある石積櫓」で有名な長岩城であるが、規模も壮大で全てを見て回るにはかなりの時間を必要とする。気が付けば休憩もほとんど取らずに4時間余り山を歩き回っていた。山には至る所に指標があり迷わずに散策することができる。
城は「なべもと谷」を流れる小川を挟んで東西の山にあり、西側が本丸などがある山城、東側が陣屋と称される屋敷跡などがある。
橋を使って津民川を渡り山に入ると直ぐに「一之城戸」があり、「三日月塹壕」、「二之城戸」、「三之城戸」と続き、ここが城と陣屋の分かれ道となっている。 「一之城戸」は石塁で囲まれた空間の北端に虎口があり、門の礎石らしき石も残る。 「二之城戸」は川の西側に一本の石塁を防塁として積み上げ、対岸の東側にも弓形になった石塁を設けている。「三之城戸」は本丸へ続く西の山へ向かって長く石塁を積み上げている。
本丸は西の山の標高530.7mの山頂にあり、細長く平べったい石を積み上げた石垣がある。方形の低い石垣を伴う虎口や二本の石塁が突き出した虎口など、特異な形状の虎口が残る。本丸の石垣は東から南にかけてあり、高い所は二段になって積み上げている。
本丸の南東下にあるのが東之台であるが、本丸からこの東の台まで長台な石塁が伸び、その両脇に竪堀がある。石塁は本丸虎口のすぐ下で鈎状屈折して横矢になり、さらに中段には砲座が残る。
本丸から南の西之台へ向かうと二重堀切の先に東西両側に石塁を設けた通路がある。ここに「一文字土居虎口」がある。この虎口は屈折して入っていたようで、一文字土居虎口の看板のある所が枡形状の空間になっている。
西之台は南に大きな三重堀切があり、堀切はいずれも東へ長大な竪堀として伸びている。この西之台も西側に石塁を設けている。
本丸の対岸、東の山に陣屋がある。陣屋は谷側に石積を設け中央に虎口がある。この陣屋を守るように南北両側に砲座かある。北へ続く尾根には馬場があり、この辺りにも石積が残る。
陣屋の東背後へ登っていくと垂直の壁がありハシゴが架かる。これを登ると石積櫓へ行くことができる。断崖絶壁の細尾根だが以前にはなかったロープが張られており、少し安全になっている。弓形砲座へは非常に危険なため、別の林道ルートから登ると比較的簡単にいくことができる。
永岩小学校を目指して行けば良いだろう。少し手前に長岩城見学ようの駐車場がありトイレも完備している。
弓形砲座へ向かう林道ルートは駐車場から東へ行った中村バス停の所からあり、入口に案内板がある。しばらく林道を走ると大きな矢印があり、そこから砲座へ至る山道がある。(林道入口)