築城年代は定かではないが友杉民部によって築かれたと云われる。友杉氏は中間氏・一戸氏・大江氏などと称していた。また中間氏は宇都宮氏一族とも云われはっきりしない。
天正15年(1587年)中間統胤は豊臣秀吉による九州征伐の後は中津へ入部した黒田氏に従った。中間氏は黒田姓を賜り城番として続いたが、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で黒田氏が東軍に属して軍功を挙げ、筑前国福岡へ転封となるとこれに従いこの地を去った。
代わって中津に入封した細川忠興は家臣の荒川勝兵衛に三千石を与えて城代とした。現在残る石垣造りの城は、この細川時代の遺構と考えられており、元和の一国一城令によって廃城となった。
一ツ戸城は山国川に面した標高364.4mの妙見嶽に築かれており、現在は登山道が整備されている。
麓から見上げると山頂部が隆起し、断崖となった山で、この上に石垣造りの近世山城が存在しているというのは、まさに圧巻だっただろう。
一ツ戸城の遺構は山頂部と東尾根の二ヶ所に存在する。
主郭は山頂の曲輪Iで東端にある虎口1は鈎状に屈折した階段を登る虎口となる。石垣は北東側や南東側面にわずかに残るが、北東上部には裏込め石と思われる石が上辺部のあたりまで残されており、高石垣であったと思われる。
主郭の東下に位置する曲輪IIも高石垣造りであるが、虎口は南端に直線的な低い石段がわずかに残るだけである。
曲輪IIIは城内で最も広い曲輪で、東端曲輪IVとの境目に虎口3がある。虎口3は大手と考えれ、石段を登ると正面に鑑石と思われるやや大きな石を見ることとなる。ここから北東へ道が続くが、すぐ先で消滅しており、どのようなルートで麓と繋がっていたのかは不明である。
尾根の東端にある曲輪IVはIIIより一段高く、南西側が虎口となっていたと思われる。東端北部に石積や列石があり、櫓などがあったのかもしれない。
北山腹ににある曲輪Vは東西両端を幅10m弱の竪堀1、2で遮断する。東の竪堀2に対して竪土塁の外側に石を並べた竪石塁3があり、西側も一部石が積まれている。西端近くには櫓台2があり、曲輪内側には竪土塁が伸びて、食い違い虎口のような形状になっている。
主郭から西へ伸びた尾根には小規模な曲輪VI、VIIが存在する。西端には櫓台1があるが、そこから北西に伸びた尾根には堀切などはなく自然の尾根が続く。南下に虎口4があり、ここも小さいながら階段と石垣で固められている。このルートから下ると南の神谷地区へ続いている。
主郭の南下には小さく三段ほどになった帯曲輪VIIIがある。ここは側面の岩盤が削られており、この辺りから石垣の石を取り出しているようである。
東麓の大神宮の上にも遺構が存在する。神社や道路建設で改変されているが、上部に櫓台3がある。そこから南東へ伸びる尾根の南側に石垣があり矢穴石もある。尾根上に石が並べられているが、これは道路建設時に出てきた石材を置いたのだろうか。
東麓にある大神宮の参道入口に案内板が設置されている。登山道は平成19年に新設された北の谷から登る道と、南の集落側から登る道がある。
北の林道から谷の奥に入った所にある北口はしっかりとした道になっており、こちらから登るのがお勧めである。未舗装だが登山道登口のすぐ先に駐車スペースがあるため、そこまで車で行くこともできる。
南の入口は民家脇にある。以前は踏跡も辿れない山道であったが、現在はロープが設置されており、山上から下山するルートとしては問題なく歩くことができる。ただ駐車スペースもなく、下から登るルートとしてはお勧めしない。