築城年代は定かではないが宇都宮氏によって築かれたと云われる。 建久6年(1195年)下野国宇都宮信房が地頭職を得て入部し神楽城を築いたのが豊前宇都宮氏の始まりで、後に城井(きい)氏を名乗った。その後、大平城へと居城を移し詰の城として築いたのが城井郷城である。
豊前宇都宮氏は鎮西宇都宮氏とも呼ばれ、南北朝時代までは豊前有数の勢力を誇り、宇都宮冬綱の時には豊前国守護職に任ぜられているが、応安7年(1374年)冬綱・家綱父子は突如南朝方に寝返り高畑城で蜂起した。九ヶ月余りの籠城の末、北朝方の今川了俊によって鎮圧され、宇都宮氏は以後衰退し、周防の大内氏や豊後の大友氏などに属していく。
天正14年(1586年)豊臣秀吉による九州征伐に従軍するよう命ぜられると、当主宇都宮鎮房は病気と称して嫡子の朝房を派遣した。
九州征伐の後、豊前は黒田孝高に与えられ、宇都宮氏は伊予国今治へ転封とする命が降ったが、鎮房はこれを不服とし秀吉と対決する決意をする。あわてて毛利勝信が仲裁にはいり旧領を安堵させる約束してひとまず城井郷城を明け渡したが、いっこうに安堵の朱印はこなかった。意を決した鎮房は一族300人余りを引き連れて黒田氏の城代として城井郷城を守る大村氏を追い払い城井郷城を奪還一揆を起こした。
城井郷城に鎮房が復帰した知らせはすぐさま旧家臣に伝わり、わずかの間に数千もの軍勢に膨れ上がった。この知らせを受けた黒田孝高は驚き秀吉に援軍を求めて毛利勝信の兵を加えた二万余騎の軍勢で黒田長政を総大将として城井郷城を攻めた。 しかし、狭い渓谷の最奥に位置する城井郷城へ向かう軍勢は、宇都宮氏の伏兵に散々悩まされた挙げ句に敗北する。孝高は武力での鎮圧を諦め、秀吉に使者を遣わし鎮房の娘鶴姫を長政の嫁に嫁がせ、宇都宮氏の旧領は安堵という条件で和睦する事となる。
天正16年(1588年)豊臣秀吉の命により宇都宮鎮房は中津城にて黒田父子と対面するよう命ぜられ、鎮房は家臣を引き連れて中津城へ向かい酒宴の石で後藤又兵衛の槍によって暗殺された。これによって宇都宮家は滅亡する。
城井郷城は城井川沿いに開けた谷の最深部から更に東の小さな谷に入った所に築かれており、周囲にはゴツゴツとした岩場に覆われている。城館跡とされているが、天然の要害を利用した隠れ里のようなものである。
城井郷城の主郭部は小さな沢の流れる谷間に開けた平坦面で、石積された神社の基壇らしきものが残されている。西の谷間の入口には「表門」、東には「裏門」と呼ばれる天然の岩があり、谷間の入口を固めている。また城井川の下流からの入口には「三丁弓ノ岩」と呼ばれる切り立った岩が残る。
県道32号線を南下して牧の原キャンプ場を目指す。キャンプ場を過ぎると県道は鉾立峠へと登っていくが、その分岐転に「宇都宮一族の碑」が建つ。
ここから少し入った所に「三丁弓ノ岩」があり、舗装路の終点が城跡への入口でここに駐車可能である。裏門のすぐ下まで登るには鎖を頼りに切り立った岩場を登らなければならない。そこから反対側へ降りると南の谷を抜けて駐車場まで戻ってくることができる。