築城年代は定かではない。城主は宇都宮氏一族の小山田氏と考えられている。
天正15年(1587年)一揆を起こした城井鎮房を鎮圧するため、黒田氏は広幡城を攻略して岩丸から南下して攻め入ったが、黒田家臣の大野小弁正重、毛利家臣の勝間田彦六左衛門重晴らは城井方の塩田内記、新貝荒五郎に討ち取られ、黒田長政は辛うじて馬ヶ岳城へ逃げ帰った。このとき、討ち取った首八百余りが櫟原の地に並べられた。現在も「首塚」という地名として残されている。
小山田城は本庄と岩丸との間に聳える標高370m程の山に築かれている。 単郭の小城で東へ伸びた尾根を堀切で遮断し、一段高く切岸を巡らせ主郭とする。周囲は緩斜面となって帯曲輪状になるが切岸は甘く、北端から北東、北西に尾根が分かれているが、両尾根ともほぼ自然地形のようである。
討死した「勝間田彦六左衛門重晴の碑」という案内板を岩丸の六田付近(地図)に見つけたが、肝心の碑を見つけられなかった。
東の岩丸に豊前変電所がある。県道233号線を南下して変電所をすぎ、上岩丸公民館の付近から西の山上に登る林道入口がある。そこから林道を登っていくと変電所の西上付近から更に西へ登っていく林道が付いている。これをしばらく進むと尾根上に達するが、少し手前に未舗装林道の入口がある。これを入って少し行くと広く開けた場所があり、そこから約800m程尾根道を北上すれば鉄塔を経由して城址へと続いている。(林道入口の地図)、(車で行ける最終地点)。
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