天慶5年(942年)源経基によって築かれたのが始まりとされ、太宰大弐橘公頼の子筑前守昌頼が城主となった。その後、七代続いたが仁平元年(1151年)源為朝によって攻め落とされ城主頼行は自害し、草野氏が城主となった。
文治元年(1185年)源平合戦の時、緒方惟義の一族緒方九郎が平家に叛いて馬ヶ岳城に楯籠った。
南北朝時代から戦国時代にかけて小弐氏、大友氏、大内氏、毛利氏によって争われ、天正年間(1573年〜1592年)の城主は長野氏であったが、天正14年(1586年)豊臣秀吉による九州征伐で降り、豊臣秀吉が九州に下向したときには、その宿舎になったという。
九州征伐の後、豊前に入封した黒田孝高の居城となったが、孝高は中津城を築いて移り、元和の一国一城令によって廃城となった。
馬ヶ岳城は標高216mの馬ヶ岳に築かれている。現在は登山道が整備され、近年の大河ドラマ「黒田官兵衛」によってよりいっそう整備が進んでいる。
馬ヶ岳城は標高216mの峰に本丸、その東にある標高208.7mの峰に二の丸、そしてそこから北へ伸びた尾根の麓近くに山麓遺構が残る。居館は本丸北の谷間の奥にある「杉ノ木」集落と推定されている。
馬ヶ岳城の遺構で特に目を引くのが山麓の遺構で、これは他の城ではあまり見ることのない遺構である。居館推定地の東に面した南北に伸びた尾根に横堀を入れ、東側面に無数の短い畝状竪堀群を設けた遺構があり、これが尾根の先端近くから山の山腹の標高100m近くまで続いている。当然麓に近い部分は横堀であるが、それが竪堀へと変化し、途中で一ヶ所鈎状に屈折する。畝状竪堀群は横堀の外側がギザギザに刻まれているのが大半で、竪堀として長く伸びている部分は少ない。
二の丸は標高208.7mの峰にあり、西に一段腰曲輪、東尾根は登山道のある部分を含め数条の堀切がある。
本丸は山頂部分で東西に伸びた尾根にある曲輪の規模は小さい。本丸の東端から南へ伸びた尾根に大堀切があり、東端に土橋を残す。この土橋は付け根部分に竪堀を入れて曲げており、さらに側面にも竪堀を設けている。堀切は規模が大きく西端から竪堀として落ちている。本丸は西尾根、北西尾根、北尾根にも堀切がありが、規模は小さい。
この本丸一帯は曲輪の淵に竪堀状の溝が多くあり、一部は曲輪を横切る形で溝が走っているように見える。これらの遺構がどのような特性を持つのかハッキリしないが、曲輪を破城処理している可能性も考えられるであろう。
北の県道沿いに道標がある。駐車場は何カ所か用意されており、登山道の道標もしっかりしている。
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