築城年代は定かではないが南北朝時代に西郷刑部左衛門高瀬によって築かれたと云われる。西郷氏は豊前宇都宮氏の庶流である。
天文年間(1532年〜1555年)頃の城主は西郷右衛門大夫、永禄2年(1559年)大友氏の田原親宏によって攻められ落城したという。
不動ヶ岳城は今川の北岸にあり南東に伸びた丘陵の先端頂部に築かれている。
主郭は山頂にあって南北に長い方形で、周囲には概ね低土塁が巡らされている。 主郭の北から東側にかけて横堀が巡らされている。北と東の横堀が交わった所からは竪堀になって北側に伸びている。主郭の西斜面には竪堀が二条設けられている。
主郭の南東下には虎口らしき空堀状の通路があり、そのまま南東へ延びた尾根に設けられた曲輪群に至る。この曲輪群は東に伸びた尾根に数段設けられ、所々土塁状の土盛りが残り、竪堀か通路のようなものが南斜面に伸びている。この曲輪の一角に「廣瀬院唯宮(官)是伸居士」と刻まれた墓碑があり、地元では城主のもので廣瀬唯信と伝えられている。
「日本城郭体系」には不動ヶ岳城と大村城が別項目として記載おり、これは「九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告29」によるものであるが、後者にある地図には大村城の位置は記されているが不動ヶ岳城は見あたらない。「日本城郭体系」の地図では大村城の北西に不動ヶ岳城のマークが付いている。一方、「福岡県の城郭」・「福岡県の城」では不動ヶ岳城の別称として大村城をあげており同一の城郭と見なしているようである。
犀川駅を目指す。駅前から南へ進み、県道204号線を北西に進み今川を渡る。左には県道204号線と県道34号線の分岐があるが、左奥に北側の集落に入る道があるのでそれを入る。少し北上すると右側に鳥居が見える。この東側に見える丘陵が城址。山へはここから北側の山に入る道があり、それを登ると墓地に至る。尾根上から南東側の墓地へ進み終点からやや藪をかき分けて山に入っていくと北側の横堀に至る。
最寄り駅(直線距離)