築城年代は定かではないが南北朝時代に西郷刑部左衛門高瀬によって築かれたと云われる。西郷氏は豊前宇都宮氏の庶流である。
天文年間(1532年〜1555年)頃の城主は西郷右衛門大夫、永禄2年(1559年)大友氏の田原親宏によって攻められ落城したという。
また広瀬唯信が城主であったともいう。
不動ヶ岳城は南東に伸びた尾根の先端に築かれている。
ほぼ単郭の城で主郭は南北に長い方形で北西の一部を除いて土塁が巡る。外側は北から東にかけて深い横掘1が巡って尾根から切り離している。横掘1は北端部分から竪堀2が伸び、北西端は谷へ落ちている。
主郭の南西隅にぱ虎口があり、不明瞭であるが右折れで入る構造である。外側は東西に細長い曲輪IIに続く。南西尾根は自然地形であるが、曲輪IIの東端は横掘の外側に通じる細い道がついており、こちらから出入りしていた可能性も十分ある。
南端から東へ続く尾根には土塁状地形が確認できるが、地形の改変が大きく遺構かどうかわからない。この先にある「廣瀬院唯官是伸居士」と刻まれた墓碑は城主広瀬唯信の墓と伝えられる
西麓にある大村区公民館のあたりに駐車可能。脇の道を北へ進むとそのまま山上にある墓地に登る道があり、墓地奥から行くことができる。
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