築城年代は定かではない。
永禄9年(1566年)から宝満山城主高橋鑑種をはじめ、秋月種実らが大友氏から離反して挙兵した。
永禄11年(1568年)には杉因幡守隆哉も、毛利氏に庇護されていた西郷隆頼とともに大坂山城を築いて楯籠もったが、まもなく大友勢に攻められ降伏した。永禄12年(1569年)には西郷隆頼は豊前国で50町を大友氏から預けられている。
大坂山城は標高573.0mの大坂山(飯岳山)山頂から東へ伸びた尾根の一つ、標高460m付近に築かれている。
標高463mのピークを東端として東西約400m程の規模があり、西の標高460mのピークを主郭とする。全体的に削平は甘く、曲輪は緩斜面地形を残す。西の主郭と東端のピークが一段小高く曲輪となっており、その間の尾根は自然地形に近い尾根が続く。しかしながら、北山腹には畝状竪堀群が浅いながらもビッシリと設けられており、西の主郭から東端の曲輪までほぼ全体的に畝状竪堀群となっている。ただ、南側面は加工が少なく、切岸になっていない部分も多い。
北の国道から山頂まで車道が通じており、車で登ることができる。山頂まで登らないところに自然歩道の入口があり、これをたどって東尾根に行けば城域に入る。
最寄り駅(直線距離)