建武3年・延元元年(1336年)足利駿河守統氏によって築かれたと云われる。 足利尊氏が統氏に命じて築城し統氏を豊前国守護としたと日本城郭体系には記述しているが、足利統氏の系統はわからず、岩波書店の日本史事典には豊前国守護として統氏は記されていない。
応安元年・正平23年(1368年)統氏の籠る障子ヶ岳城を千葉光胤が攻め落とし、その後は千葉氏の居城となったが、応永6年(1399年)正月千葉氏が一族を集めて祝いの最中に突然大内義弘の軍勢が攻め寄せ城内は大混乱となって、千葉高胤は落ち延び、子の千菊丸も太田蔵人が守って筑前へと落ち延びた。その後、千菊丸が千葉氏を再興して大内氏より障子ヶ岳城を取り戻したが長くは続かず千葉氏は滅亡し、再び大内氏の持城として家臣門司左近将監国親等が城番として在城していた。
天正年間(1573年〜1592年)頃には毛利氏家臣千手氏が城主であったが、天正7年(1579)高橋元種によって障子ヶ岳城・香春岳城が攻め落とされ、高橋元種の出城となるが、天正14年(1586年)毛利・小早川の軍勢により攻め落とされた。
天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐で、一時宿舎として利用され、その後は豊前国に入部した黒田孝高の持城となったが、元和の一国一城令により廃城となった。
城は金辺川の東岸に高く聳える標高427.3mの障子ヶ岳に築かれており、金辺川を挟んだ対岸には香春岳城を見ることができる。
まず、地権者ならびに日々整備してくださっている地元の方々に感謝したい。城跡はとてもきれいに整備されており、これほど楽に楽しく城跡を見学することができる場所はそうそう存在していない。天守や石垣はなく、技巧的な縄張を持つ城ではないが、この山容を見るだけで楽しくなる城である。
典型的な連郭式山城で、写真を見て頂ければ説明せずとも縄張が概ねわかると思うので簡単に書くと、本丸は山頂にあって四方を土塁で囲む。本丸から南西下に降りた所に堀切を挟んで出丸があり、その先にも一条堀切がある。この部分のみあまり整備されていない。
本丸から北へ二の丸・馬場・堀切を挟んで北の丸があり、やはり土塁が残る。この堀切の部分から西斜面を通じて北尾根へ道が通じ、北の丸の下に堀切が一条ある。ここの堀切の部分に東麓からの登山通が伸びている。ここから北の尾根伝いには数ヶ所砦または出丸跡と思われる削平地が点在する。北端の砦と本丸の距離は直線にして約800m程である。
登山口はいくつかあるようですが、車であれば北側の味見峠付近にある味見桜公園から登ると、高低差も少なく北尾根に存在する砦群を見ながら本丸へ向かうことができる。味見桜公園へは県道64号線味見トンネルの西の入口手前に北へと入る道があり、そこから林道を経て車で行くことができる。
最寄り駅(直線距離)