築城年代は定かではない。貞治5年(1366年)北朝方の門司親長が南朝方の菊池武光の軍勢が籠もる岩熊城を攻めている。
永禄11年(1568年)には毛利の軍勢が岩熊城に軍勢を入れており、これを大友宗麟が長野三河守に知らさせている。
尾倉山城は諫山小学校の東に聳える比高20m程の独立丘陵に築かれている。
山全体に削平地が拡がっているが、中心となっているのは北の一段小高い所で、部分的に土塁が付いた楕円形の主郭を取り囲むように二重に曲輪が付いている。
西尾根の先端にある墓地は唯念寺の南から学校の塀沿いに入る小道の先から行くことができる。また東側からも登る道が付いている。
最寄り駅(直線距離)