手切城は『豊前誌』や『古城記』に千手氏の城として記載されていたが、その所在については不明とされてきた。しかし『福岡県の中近世城館跡 』によって手切城が牛斬山一帯にあることが明らかにされた。同書によれば、「手」と「牛」の字の筆運びが類似していることから、江戸時代の地誌編纂のさいに誤写があったものと推測され、改めて文献を確認すると、応永4年(1397年)に大内義弘が豊前に侵攻して少弐氏を敗り、その後「馬岳・赤松・牛切之数城」を戦わずに降伏させており、この牛切が手切城のことを指していると推測している。
手切城は牛斬山から南の牛斬峠に至る尾根筋に遺構が点在しており、現在の遺構は障子ヶ岳城近隣に残る砦群とあわせ、香春岳城攻めに関する陣城群とも推測されている。
手切城の主となる曲輪が牛斬山と考えられるが、山頂部はほぼ自然の緩斜面地形で現在は登山スポットとして展望が開けている。明確な遺構は北尾根にある堀切で、城内側の切岸が高く、幅広の堀になっている。
各方面から牛斬山への登山道がある。今回は五徳越峠の登山道から、牛斬峠を経由して牛斬山へ、下山は新登山道を利用した。五徳越峠に駐車可能で道しるべもしっかりしている。
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