仁平2年(1152年)源為朝によって築かれたと云われる。 鎮西八郎為朝が豊後国臼杵より移住して築いた館である。
源為朝は13歳の時、父為義に追放され豊後国に住していたが、15歳の頃には九州を席捲する。朝廷は為朝の不法な行動を伝え聞いて上洛を促すが為朝はこれに従わなかった。久寿元年(1154年)朝廷は為朝の父為義の官職を解く。これにはさすがの為朝も上洛せずにはおけず、嫡子鶴王丸に宝刀「若緑」を与え阿蘇忠国を後見人としてこの地に残し、自身は上洛する。
その後、保元の乱が起こり為朝は父為義とともに戦うが敗れ、伊豆国大島へ流罪となった。一方鎮西原に残った鶴王丸は元服して鎮西太郎基朝と名乗ったが肥後国で死に、その後数代続いたが応永5年(1398年)大内盛見に降って滅亡した。
田川農林高校の敷地が館跡で、北側の校門脇に案内板が建つ。高校の敷地は北側の道路よりも一段高い位置にあり、北側に広い窪地があるが、これが館の堀跡とされる。