延元4年・暦応2年(1339年)菊池武重によって築かれたと云われる。 南朝方の雄、菊池武重が豊前に攻め入り緒方氏を降して戸代山に城を築き、肥後守武光を置いて守られたという。
応安3年(1370年)北朝方の畠山義深によって攻略され、菊池氏は肥後へ退き、畠山氏の持城となったが、応安5年(1398年)大内盛見によって畠山氏は滅ぼされ、戸代山城は大内氏を追い落とした大友親泰の居城となった。
その後も大内氏、宇都宮氏(城井氏)、毛利氏によって争われた。天正年間(1573年〜1592年)頃の城主は小早川義平(秀包の弟とされるが不明)であったが病没したため、馬屋原左馬助元有が城主となった。天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州攻めで元有は降伏を申し出たが許されず、黒田孝高によって攻め落とされ、その後の岩石城攻略時には、秀吉が戸代山城から観戦したという。
城は標高317.6mの戸城山山頂に築かれている。現在は公園として登山道が整備されている。
主郭は三角点のある山頂部で、東に広い曲輪IIがあり鞍部は少し低くなる。虎口ははっきりしないが、IとIIの鞍部から南下の横堀に降りて行く小路があり曲輪IVに繋がる。主郭部I、IIの周囲には一部二重になった横堀とそこから派生する畝状竪堀群によって側面が固められている。
曲輪IIIは西尾根の先端にあり西から南にかけて低い土塁がある。主郭Iとの鞍部には曲輪IVがあり、主郭の南北側面にある横堀に通じている。
西尾根にある畝状竪堀群2がこの城の特徴となる遺構で、尾根に沿って二条の竪堀が東西に伸び、そこから南北に複数の竪堀が伸びており、"非"の字のような形状をしている。尾根沿いに伸びた竪堀は西端で北西尾根側に伸びており、堀切1でも遮断しておらず、この堀底を通る限り横堀4までスムーズに移動できる。横堀4を東へ移動すると、曲輪IVの南側にある食い違い虎口のような部分に登ることができる。
曲輪V、VI、VIIは主郭部から伸びる尾根先にあるいずれも傾斜を伴っているが、V、VIについては下方に横堀や竪堀群を配している。VIIは堀にはなっていないが、北側面に切岸を設けて下は傾斜した帯曲輪状地形になっている。
登山口は北と南にある。車の場合は県道34号線から少し西へ入った北側の登口に駐車場があるのでそこから登るのが良い。
南側は油須原駅から道標が出ている。
最寄り駅(直線距離)