築城年代は定かではないが宇都宮信房によって築かれたと云われる。 下野国の宇都宮信房が地頭職を得て下向し最初に築いたのが神楽城で、城井氏(きい)を名乗り、数代の居城となった。
その後、大平城を築いて居城を移した後は宇都宮氏の出城となった。
古くは高彦山と呼ばれ、神功皇后三韓征伐の時、この山で天神地祗を祀り、敵国降伏を祈り、凱旋の時この山で神楽を奏したと伝えられ神楽山と呼ばれるようになった。
神楽城は祓川の西岸標高272.1mの神楽山山頂に築かれており、現在は登山道が整備されている。
山頂部の主郭Iを中心に曲輪が拡がり、切岸の下方に畝状竪堀群を設けている。
主郭Iは小高い中心に向かって通路が取り巻く。南の曲輪IIと間には鍵状に屈折する土塁1を設けており、東端部が開口して虎口となる。この虎口部分に石積が確認できる。
曲輪IIも中心部が小高く周囲になだらかに広がる。南端の切岸は低く、堀切4方面に緩やかに伸びている。堀切4の先には小規模な曲輪IVがあり、木橋で繋いで堡塁のような使い方をしていたのかもしれない。
主郭の北西にある曲輪IIIは小規模ながら土塁が取り巻き、土塁の一部には石列をともなう。主郭Iとの間は堀切状になるが主郭西下の帯曲輪とは高低差がない。北端部は土橋状になり、ここも石列をともなう。
西側面には現在も明瞭な畝状竪堀群3が広がる。北へ続く尾根は中央に一条竪堀を伸ばしてその脇に竪堀群を設けた珍しい形状の竪堀群1があるが、類似遺構は戸代山城でも確認できる。
東側面には南側に不明瞭な畝状竪堀群6があり、その北側には帯曲輪のような平坦面aがある。平坦面aには一部竪堀になっている部分があり、後世の改変によって帯曲輪のような地形になったと思われる。
ここから東山腹へ降ると不明瞭な平坦面が広がる遺構bがある。この部分は炭窯跡などもあり、城の遺構かどうか悩ましいが、東端部は城の切岸としても違和感がない。
北東の山腹に平坦面cがある。谷筋に設けられた削平地で奥には基壇のような石積をともない、谷側の切岸にも石積が確認できる。南側の尾根には小規模や段曲輪群、北側の尾根には二段の段曲輪があり、この部分も城の遺構と考えられる。
東麓にある木井神社の参道入口に案内板が設置されている。 神社までそのまま車で上がることができ駐車可能。
登山口は道標はないが、神社に向かって右側にある。
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