貞治年間(1362年〜1368年)に畠山(畑山)氏によって築かれたのが始まりと云われるが、『福岡県の城』では戸代山城を大雁股と呼ぶことから戸代山城主の畠山氏と雁股城を混同したものではないか、と指摘している。
長岩城主野中兵庫頭鎮兼の出城となり、その家臣友枝隼人佐、友枝大膳丞などが城主を務めた。天正15年(1587年)大膳丞は観音原で黒田軍と戦い、後藤又兵衛に傷を負わせたが、この戦いで大膳丞は討死、雁股城を守っていた大膳丞の弟友枝新兵衛は黒田氏に降ったという。
雁股城は福岡県と大分県の県境に聳える雁股山に築かれている。 雁股山は標高807.1mの三角点がある東峰と北西にある西峰に分かれているが、雁股城があるのは西峰である。
雁股城は山頂から南北に伸びた尾根と北端から北東へ伸びた尾根に曲輪を配している。 山頂部は細尾根で大きな石が点在しており曲輪にはなっていない。南下に降った所に低い土塁の付いた曲輪があり、そこから急坂を降った南東尾根に堀切が一条付いている。この急坂には鎖が付いているが、最大の見所でもある石塁遺構が南山腹西側に残されている。
山頂から北へ伸びる尾根には段々と曲輪が続いているが、奇妙なことに曲輪の中央部に土塁が付いている。一番上の段はそれほど広くない馬蹄形の腰曲輪であるが、これを東西に分断するように中央に土塁が付いている。獅子垣や村境のための措置も考えられるが、現在県境にもなっている東峰などにはこのようなものがないので、城郭遺構と考えられる。
北端から北東へ伸びた尾根に城内でも広い曲輪群があり、その先端から比高50m近く降った尾根先に堀切が一条残っている。
この城の最大の見所である石塁は『福岡県の城』によれば昭和30年頃まで、上部に矢を射る穴が残っていたようであるが、現状はただの石塁である。しかも用途は側面移動を防ぐのが目的であろうが、周囲は登山道に鎖を付けているほどの急斜面である。
福岡県側の県道109号線の終点が雁股峠で普通車でも行くことができる。狭い道ではあるが舗装された道が峠まで付いており、終点に何台か駐車可能である。(地図)
県道の終点にはトンネルがあり軽トラは通行可能なようであるが、大分県側は未舗装林道であった。