築城年代は定かではないが布施氏によって築かれたのが始まりとされる。 布施城を詰城とした布施氏の居館があった所と云われているが詳らかではない。
慶長6年(1601年)紀伊国和歌山から桑山一晴が一万六千石で入封し新庄藩となった。 慶長9年(1604年)桑山一直のとき、桑山貞利に三千石を分与して一万三千石となり、延宝5年(1677年)桑山一尹が家督を継ぐと、弟の一慶に千二百石、一英に八百石をそれぞれ分与して一万一千石となった。しかし、天和2年(1682年)四代将軍徳川家綱の法会が寛永寺で行われた際、桑山一尹が勅使に対して不敬があったとされ改易となった。
その後、永井直圓が新庄藩一万石の大名として入封し、文久3年(1863年)八代藩主永井直壮が櫛羅陣屋に移すまで存続した。
新庄城は屋敷山公園に築かれていた。屋敷山公園の中にある屋敷山古墳が新庄陣屋のあった所で、入口に石碑と案内板が設置されている。