築城年代は定かではないが越智氏によって築かれたと云われる。
越智氏の出自は詳らかではないが、南北朝時代には大和における南朝方の中心となり、北朝方の筒井氏と対立した。
越智城は南に向かって開口した谷間に築かれていた。南へ向かって開口した谷間に居館を設け、南を除く三方を取り囲んだ尾根を要害としていたという。また東側にある貝吹山城は詰城とされる。
居館があったとされる谷間の部分は畑などになっており、内部は二・三段程の平場に分かれている。 これを取り囲んでいる丘陵には古墳らしき土壇が点在しているが、城郭遺構らしきものは西側の尾根の南端付近にある程度で、全体的には自然地形と古墳である。
東側の尾根は鉄塔が二基あり、南端の登り口は土塁と堀のような地形の部分から付いている。この尾根には二・三の古墳らしき土壇がある。山道はやがて北側の尾根へと周り、二基目の鉄塔の後は北西尾根へと続いている。この先に深い堀切(切通?)が一条付いている。
西尾根側は北から南へ歩いて行くと、東の居館側に竪堀として伸びる堀切が一条あり、その先に土塁の付いたような曲輪らしき削平地が一段ある。ここから南は湾曲した溝があるが、古墳と古墳の間の溝で、南端からは南下へ降りる通路がある。尾根の南端を降りると一段削平地があり、その先から居館側へ降りる通路がある。
越智公民館の東側の部分が居館。尾根上へは東尾根の南端に鉄塔整備用の道が付いている。
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